-Amor Maring Acintya-最高神の元へお帰りになれますように。
-Amor Maring Acintya-
最高神の元へお帰りになれますように。
インドネシアのバリ島。
その中央にあるバングリにデワアジ翁の大家族は暮らしています。
大家族の訳は、奥様が4人いらしたからです。
子供は35人。そして孫、ひ孫とつながる家族は皆で仲良く暮らしています。たえず、誰かが誰かの家を訪れ、助け合って暮らしています。
(詳しくは私の著書「ここは私の学校」を読んでね)
(私の妹プルナミ宅からは朝日にはえる聖なる御山が・・・。毎朝、拝めます。)
いつも「私の娘」と言って下さったデワアジ翁。日本の家族も手厚いおもてなしでいつも迎えて下さいました。
「イルカ四十周年パンフレット」には以前インタビューさせていただいた記事を載せたので報告する予定でしが・・・残念でした。しかし締切にギリギリ間に合ったのでデワアジ翁の訃報を載せる事になりました。祭壇に報告すると「デワアジ翁の大切な物と柩に納め一緒に荼毘にふしてもよいですか?」と言って下さったので、きっとデワアジ翁の元に届き喜んで下さった事でしょう。
(インタビュー記事はIUCNページをご覧ください)
(村の僧侶としてあとを継いだ息子のパオさんと。
遺影と共にパンフレットを並べて下さった。)
私が出逢った頃はまだみーんなやっと小学生だったあばれん坊達も、
みーんないい青年になったでしょ?皆それぞれ将来が楽しみ。
私の左側バユウは島一番の踊り手で日本に来日した時には一曲一緒にレコーディングしました。
ガムランも全てこなします。いつか聞いてね!
連日、夜にはデワアジ翁の弟子の中から特に選ばれたダランが「影絵芝居ワヤンクリッ」のうでを競い、披露して下さいました。
村人達は大喜びです。
当初は自宅の予定でしたが入りきれず、集会所に。それも無理でお寺の広場で行われました。
私達が向かうと待ちきれない聴衆が山の様に・・・。
デワアジ翁といつも色々な村に招かれて行ったあの懐かしい空気を想い出しました。
祈りを捧げ、聖水をまき、パッと上半身はだかになり、3時間にも及ぶ物語を語り人形を使い、ガムランの指揮をするデワアジ翁。
その全てがその日の聴衆に合わせての即興で進めて行くのを、私達はいつもその後ろから見守っていました。
終わると再び祈りを捧げ、「どうでしたか?」というように満足げな笑みを浮かべて振り向くあの御姿。
自宅に着けば深夜。
山盛りのごはんを食べて冗談を言って皆を笑わせ「つかれましたか。
早く休みなさい」とやさしい言葉をかけて下さった。
(今も毎日、日本の自宅ではデワアジ翁の御供養をしています。
作って下さったワヤンの人形と共に。)
真っ暗な会場に小さな蛍の光がフワフワと飛んで来ました。
「デワアジ、きっと氣になって来てるね!」姉さん達と微笑みました。
(ひ孫たちも大きくなりました。)
デワアジ翁の奥さま。(たぶん80歳?)
顔を見たらすぐ抱きついて来る本当にかわいらしい方です。
他の奥様は皆亡くなられたので、デワアジ翁を最後にみとられました。
男性はそろいの「デワアジTシャツ」青年たちのアイディア。良いです。
私も一枚いただきました!
女性は白のクバヤ(ブラウス)に紫の帯。
家族は皆これで統一。
私も、もちろん同じ装束で参加。
デワアジ翁の人形やおみこし、ダシが大通りのクルマを全部止めてパレード。
村の一大行事でした。
デワアジ翁の魂が眠る、村のサンサン河に、聖水をいただきに皆で向います。
自宅に戻ると、「大僧侶」をはじめ、捧納の為の「ワヤンクリッ」「ガムラン隊」。
婦人たちによる御詠歌の様な「祈り歌」。
そして、弔問に訪れる人々のお供え物で、ギッチリと濃密な時間が流れていました。
台所で、クッタクッタの姉さんや近所の主婦の皆さんと。
デワアジ翁は位の高い方なので、山の上で儀式がとり行われました。
デワアジ翁の魂が天に昇って行きます。
そして、再びサンサン河へ。そして・・・。
デワアジ翁は伝説のダランとなり、私達の守り神となりました。
これからも私たちは家族。
初めておたずねしたあの時から、異国の私を娘の様に大切にして下さった御恩は決して忘れません。私もデワアジ翁のように全てを愛し包む・・・そんな人になれるよう生きて参ります。